わたしにとって、怒りは原動力なんだ。怒り以外の原動力に乏しいとも言うね。
怒りという言葉を使ったけれど、別に、常に何かに対してカッカしている訳じゃない。
怒りという以外に形容しようのない感情が渦巻くけれど、その原因は、不満でたまらないモノが存在することではないんだ。
不満であるモノが無いならば、その怒りは何に対するものなのか?ということになるけれど、それは差異という言葉に纏められると思う。
あるべき状態と現状に差異を見つける。それを修復しなければならないと思う意志が、怒りという感情で現れるんだと思う。
……少し恰好を付けすぎた気がするな。
えーっと、普通の言い方をすれば、
「わたしは常に現状が不満で、イライラしている」
ということになるだろう。(イライラじゃないってさっき書いた気がするけど、まあいいや。)
ともかくだ、私の原動力は差異の認識によって発生し、差異を埋めることに使われる。
それは行動に限らず、思考でも同様だ。
わたしの思考は理解のできない現象を如何に自身が納得できるように説明できるか試行する形で行われる。
ここで問題になるのが、あくまで、思考は、何かを積み上げていくとこでなく、差異を説明するために使われるということだ。
わたしにとって思考は説明すること……目標への間を埋めるだけであって、何かを組み立てるという形では動作しない。動作させたことが無い。
大げさに言えば、わたしは怒らずに思考したこと(=説明以外に思考を用いたこと)が無いんだ。
怒らずに思考したことが無かったから、思考することが怒ることと同じでないという事実を知らなかった。
だから、思考することと怒ること(納得のいく説明を考えること)が別だと理解していなかったし、怒らずに思考する方法を知らない。
言い換えるなら、わたしは建設的に積み立てて思考する術を、技術を持たないということになる。
説明するってことは、喩えるってことだ。自分の識っている物事をつかって、目前の現象を言い表すことだ。
もちろん、説明に必要な、新しい概念を導入したり定義したりすることはあるけれども、説明の基本的な方針というのは、あくまで『出来る限り既存の知識を使って』論理を構築することなのだ。
新しい概念を基盤として、出発点として思考することとは、根本的に異なる。方針が真逆となる。
説明でない思考、怒らないという思考が存在することに気が付いたところまでは良いのだけれど、わたしはそれによって生まれる疑問に困惑を覚える。つまり――
建設的に、一から組み立てて物事を考えるって、どうすればいいんだ――?
◇ ◇ ◇ ◇
みたいなことで悩んでいたのだけれど。いや、現在進行形で、これは最も大きな悩みの種の一つなのだけれど。
そもそも『思考の原動力が怒りだ』っていう仮定は、ごまかしがあるんじゃないか。自身にとって都合の悪い何かを隠蔽しているんじゃないか。
『思考するときはいつも怒っている』こと、これは事実だ。
『わたしの思考は説明することにしか使われていなかった』『わたしは物事を一から組み立てて思考することを苦手にしている』これもまた事実だろう。
しかし、『怒りの原因は、現状と自身との間に生じる、差異に対しての不快感である』という推測は、果たして事実なのだろうか。そこに自身に対するごまかしは無いのか。
(っていうか、説明することと怒ることが、ほぼイコールになってるって、どう考えてもおかしいだろう。別に説明することって怒ることじゃないよ。わたしが説明するときは怒ってるように見えるらしいけど。)
怒りが生じ、そして説明という形で思考が行われる。
だから、わたしは、怒りによって説明という思考が生じていると考えた。怒りという存在によって思考が行われていると仮定した。
現状への不満が怒りを招き、その怒りによって思考が導かれているのだと考えた。
でも、『現状への不満』だなんて美しい理由で、私は怒りを感じているのだろうか。怒りによって思考が導かれるだなんて、そんな美しい精神構造の持ち主なのだろうか。
怒りの原因が理想と現状の解離ではないのなら、真の原因は何なのだろうか。
直感だが、そこに見てはならないもの、見たくないものを見たからではないかと思う。
見たくない物が見えてしまい、何とかそれを誤魔化そうと焦る。何かに責任転嫁をし、それに怒りを向けることによって、怒りで見たくないことを見てしまった事実そのものを隠蔽してしまう。そんな所作が働いているんじゃないか。
そう、自身の悪いところを指摘されて、他者に責任転嫁して怒る子供のような状況なのだ。
(最初っからそう言えよって自分でも思うんだけど、最初に思いついた文章が先に書いた長ったらしいものなんだから仕方ない。どうにも物事を簡単に表現するのが苦手だ。)
つまり、わたしは
『至らない自身に怒りを覚え、その怒りを以て、自身を律するために思考している』のではなく
『ひたすらに自身の汚点から目を背け、話を逸らすために言い訳を思考している』のではないか。
(ならば、わたしの話が要領を得ない、話に終着点が無いのも当然だ。何かに向かって話をしているのでなく、何かから話を逸らすために延々と言い訳を述べているだけなのだから。
話を逸らしている人間の話に付き合っても何処にも到達しない。
そして、話を逸らしている人間は、自身に話を逸らす意図なんてないと信じ込んでいる。
つまりは私の話に律儀に付き合うのは無駄だ。意味のある対応は、放置するか、逸らしている何かを主題として突きつけるかしかない。)
兎も角。わたしが『怒りを以て思考している』のでなく『何かを隠すために言い訳している』のであるなら。
わたしが一番にしなければいけないことは、自分から目を逸らしている何かを、直視して解決することなのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
しかし、ここに大きな問題が立ちはだかっている。
直視しないように、視線を逸らしているのは、わたしの意志自身なのだ。わたしが、わたしの意志で、見ないように……見えないようにしているもののはずなのだ。
ならば、それを、わたしがわたし自身の意志で見ることは可能なのだろうか。ブレーキを踏みながらアクセルを踏むようなことは可能なのだろうか。
結局、直視したと思ったものが別に言い訳に過ぎないなんてことになってしまいやしないだろうか――。
◇ ◇ ◇ ◇
「……何もないところに向かって、長ったらしく独り言を呟くだなんて怪しいわね。一体何がしたいのよ。」
いや、元々はこんなに長いこと喋るつもりはなくって、ほんの10行くらいで『なんかわたしって言い訳がましーな、でも何を言い訳してるんだか自分ではわかんないなー』ってするつもりだったんだよ。
だから、まぁ、今回は一人だけで喋っても問題ないと思ったんだけど。
「そして結果的に長くなってしまったけれど、会話に直すのは面倒だからそのままにしたのね。全く以て怠慢だわ、怠惰だわ。」
うぅ、何が問題なのか自分で判っているときは、こっちのほうが喋り易いんだよ。
「それならそれで、もっと『紬が一人で喋っている』ことが判りやすいように工夫しなきゃいけないわよ。口語っぽく書いてるのは最初だけで、あとは石花が型っ苦しく考えてるものをそのまま書きうつしただけになっているじゃない。そういうツメの甘さが色々な不都合の原因になっているって、いい加減気付いたらどうかしら。」
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