◇ ◇ ◇ ◇
方法を知ること自体は楽しいけれど、知った後はとてもつまらない。
それはとても奇妙なことであるらしい。
普通は、『自分にもできる』ということになり、できることをするのが楽しいらしい。
では、なぜ、私はそう思うのか。
それは私が、世界は判ってしまうとつまらないと考えるからだ。つまり、世界は仕組みを知らない方が楽しいと感じてしまうということだ。
手品の種を教えられたら、聞いてる時は楽しいけれど、次にその手品を見た時にはもうその手品を楽しめない(と私は感じる)し、別にやり方が判ってもその手品をしたいとは(私は)思わない。
これは仕組みに限らない。後述するが、私は何かが判ってしまうことを恐れている。私は、思考によって、思考する前よりも状況が改善することが非常に少ないと思い込んでいる。
これが愚者の考え方であることは直感的に理解している。上記は単にそういう経験をしたことが(多く)あったと言っているだけに過ぎない。経験で物事を語るのは愚者である。
■■■
できることをして何が楽しいのだろう。
正確には、『あることが自分にできる』と『あることが楽しい』は別に密な関係だとは思わないのだ。
つまり、『見ていて楽しい物』と『自分が行って楽しいこと』は一致しない。
そして、どうも私は特に、それらが一致しないことの方が多いのではないか。
その原因は恐らく私が持つ劣等感に起因している。
『上手にできた』と思えない人間は何を達成しても楽しくない。
あることを見て凄いと思ったとして、自分がそれをできるようになったら(やり方を理解してしまったら)どうなるか。
きっと、普通は、凄いことができる自分が凄いと思うのだろう。それが成功体験と言われるのだろう。成功のためには努力が必要とはそうゆうことなのだろう。
私にとって、私の判断基準にとって、非常に上位の価値観として、『私は劣っている』が存在する。
もしくは、『自身を肯定してはいけない』(=自分が凄いと思ってはいけない)か。
だから、『凄いと思ったこと』が『自分にもできる』ようになったら。普通は、『自分』に『凄い』が上書きされる。しかし私にとって、前提として『私は凄くない』のだから、『凄いと思ったこと』に『凄くない』が上書きされるのだ。
結局、行えることになったこと全ては『凄くない』が上書きされる。つまり、『楽しくない』が上書きされる。だから、できることは全てがつまらない。
ここまで、『できること』と言ってきたが、これは行為そのものではなく結果のことである。
手品であれば、『物が消えるという結果』が、プログラムであれば『ゲームが動いた』ことが、カッコイイと思える物事であれば、『カッコいいという結果が出力されるという結果』が、である。
つまり、目的のことである。そして、『やり方』は『手段』である。
私にとって、全ての目的は手段が判ってしまえば面白くない。
結果の中で面白いのは手段が判らないものだけである。
私にも実現できる結果は面白くないのである。
面白いモノの集合に目的や結果は含まれない。
含まれるものがあるとしたらそれは手段そのもののみである。
そう、この文章に対して、
『全てのものが面白くないと言っているが、キミにも面白いものくらいあるだろう』という反論は誤りである。『全ての物』=『全ての目的、結果』という意味で用いている。そう、面白いモノは手段だ。手段と目的はことなる物だ。
※じゃあ最初からそう言えって?他者とどこまで前提が共通しているか判らないだろう?想定できる全ての前提を先に提示したら何時まで経っても文章が始まらないじゃないか!
私にとって楽しいことは、その行為そのものが、原因不明で最初から楽しいことだけである。
非常に原始的だ。
本当は原因不明なのではなく、それらに理由があるかもしれないが、まだ自分でもそこまで判ってはいない。
若しくは、できるようになった最初の瞬間だけか。
できるようになった、は正確な表現ではない。できることが判った、が正確だ。
つまり、やり方を理解した瞬間だ。その瞬間は楽しい。
その瞬間を反芻することも楽しい。つまり、復習している間だ。やり方がどうなっているかを思考上でなぞっている時間だ。
しかし、それは、思考内容そのものは内容として一般的に楽しい内容ではない。
内容が楽しいのではなく、あくまで、内容を脳内で流すことで思い出される『理解した瞬間の記憶』が楽しいだけなのだ。
だから、その、楽しいこと(楽しい思考)を話しても他者は楽しくない。楽しいのは記憶だからだ。その記憶は自身にしか存在しない。話すことで同じ文章を、同じ思考内容を他者の脳内に流しても、他者にその記憶は再生されない。
だから私の話は面白くないのだ。
だって、『面白いことを話す』の定義がずれているのだから。
そう、私は、『面白いことを話す』の意味が『内容そのものとして面白い文章を話す』という意味だと、ほんの数か月前まで理解していなかった。
普通の人にとっては自身が面白いと思ったことを話せば面白い話になるだろう。もしくは、面白い話ができたことが面白いだろう。内容そのものが面白い文章とは、技術によって達成されるものだ。だから、面白い話が私にできるようになったとしても、私自身は話している間ちっとも楽しくない。
次の段落からしばらくは愚痴だ。
そう、ほんの数か月前まで、本当に私は面白いことを話すということがなにか理解していなかった。私と同年代の普通の人間は20年前から気が付いていることなのに。つまり、20年間彼らは面白い話をするという技術を磨き、私は何もしていなかった。
このようなことを書くと「では、もうキミは気づいたのだから、あとはやればよいだけだ。弱音を吐かず。」というようなことを言ってくるのだ。
ああそうだ、やるべきだし私はやるさ。何時だって理解した以上は、少しずつだろうが行動してきたさ。
しかし、その発言が如何に無茶を言っているのか、発言者はきっと理解していないのだ。理解できるものが居るとすれば、同じ経験をしたものだけだろう。(何度でも言うが、やらなければならないことは知っているし、私はやるのだ。しかし、自覚があろうがなかろうが無茶な発言をした以上は、無茶をするように願った以上は、愚痴くらい許容しやがれ。)
そう、無茶なのだ。2つの意味で無茶苦茶なのだ。
一つは、ちっとも楽しくないからだ。『面白い話をする』という面白くない結果を得るために、ちっとも楽しくない、理解済みの手品のタネを20年遅れで練習するのだ。
もう一つは、方法をなぞれるようになっても理解は(少なくともしばらくの間は)できないだろうということだ。
理解するということは、理解度に対して指数関数的だ。
運よく最初から理解度のレベルが高い人は、そのものごとに対して理解することの楽しさだけを判るのだ。
自己言及的だが、理解が楽しい人は、理解の楽しくなさの段階を知らない人は、理解度の最初のレベルが高かった人なのだ。もちろん自己言及的であるからこの文章は間違っているが、主張したいニュアンスの一部はそうゆうことなのだ。
先ほどから理解と言う言葉を使っている。
この言葉は、多分、考え方が違う人は、違う意味で使う言葉だ。
『あることができるようになること』は理解ではない。できるようになる、は必要条件だ。
理解は、概念が繋がることだ。其れよりも低い概念の組み合わせとして表現可能になるか、自身の持つ同位の概念との写像関係が成り立つか、だ。
理解は、理解をする瞬間は、確かに楽しい。
しかし、理解をするためには理解しようとする概念の一つ下の概念を理解していなければならない。
ある概念を理解しようとしたとき、それより下の概念を学ぶことは、楽しいとは限らない。
なぜなら、其れよりも下の概念には対応する言葉が無いことがありうるからだ。
もしくは、それよりもさらに下の概念が存在しないことがあるからだ。
言葉は普通の人が作る。だから、普通の人の初期状態よりも低い概念は、言葉として存在させられない。
何故なら、言葉は区別だからだ。共通概念としてあるもの、つまり普通の人にとってはそれ以上分ける必要が無い概念は、必要が無いのだから区別する言葉を持たないのだ。
仮に、低い概念(◇)に対応する言葉が在ったとしても、其れより更に低い概念が存在しないのならば、◇の概念を得る(理解ではない)ことは楽しくはない。それは理解ではないからだ。理解ではない、とは、前述の定義に当てはまらないということ(繋がる下の概念が存在しないから定義に反する)だ。
理解は楽しい。
そして、レベルが足りないときには理解ができない。対応する言葉がないからだ。または言葉を覚えるだけだからだ。
覚えるだけ。理解(=概念の結合)が行われるのは、必要な概念を覚えきってから。対応する概念すら存在しないときは、理解すら出来ずになぞるだけなのだ。
理解しなくてもなぞることはできる。なぞることを覚えきれば、結果を出すことはできる。
しかし、あくまでも、私は理解が楽しいだけなのだ。
なぞることができる人というのは、結果が楽しい人なのだろう。手段はどうでもよくて、目的が達成できることで楽しさを得ることができるのだろう。
私は理解が楽しい。そして、達成によって楽しさを(少なくとも、楽しい人と比べて非常に少なくしか)得ることができない。
達成が楽しい人にとって最良の手段は最も早く手軽に結果を実現できる手段だ。つまり、普通の良い手段はそれだ。
良い物を使わない人間は阿呆である。つまり私は阿呆である。しかし私には結果の大切さが判らないのだ。良さが実感できないのだ。それを使っても楽しくないのだ。
理解ができない手段でしか達成できない目的に、私は意味を、楽しさを見いだせない。目的を果たすことに意味は無い。ただ、理解できたことに意味がある。私の求める者は目的でも手段でもない、ただ理解だけだ。
私は、この考えが、この嗜好が伝えられるとは思っていない。だから私は口を噤むしかないのだ、噤むべきなのだ、噤むようにしなければいけないのだ。普段の会話でこんな価値観に基づいた発言は全て禁じなければいけないのだ。禁じるように意識せねばならぬのだ。
判っているのだ、この価値観が正しくないことくらい。実用的でも普遍的でもない価値観は社会上正しくないことくらい。この価値観を説明したって、こんなものを他者と共有したって仕方がないどころかマイナスだってことくらい。
■■■
勝つことが楽しいのではないのだ。楽しいことをしていただけだし、楽しいことをしていたら勝てただけなのだ。
勝つための手段が様々に存在し、たまたまその手段の中に楽しい手段が存在し、その楽しい手段を繰り返していただけなのだ。
そーだな、楽しくないと言っているだけの我儘だな。あぁ楽しくない。過程は楽しくないし結果も楽しくないし必要性も無い。詰まる所、周りがやっているという以外にする理由が無い。
根本的な原因として、そう、楽しいことばっかりやっていたのが間違いなのだ。楽しいことだけやっていれば上手くことが運んだし、楽しいことだけをしてことを運ぶ術が今までのところ結果的にあったのだ。
楽しい方法は一般的に見て効率のよくない方法だったが、冗長な分他の要素にも役に立ったし、処理能力が(自惚れだが)元々高かったから、非効率な方法でもやってこれたのだ。
世界のなんて楽しくないことか。
■■■
普通は結果が目的だ。
時々、手段が目的だ。
私は理解が目的だ。
目的を満たす手段が最良だ。
良い手段とは一般的に見て良い手段だ。
だから、結果を良く(早く、効率よく、正確に)満たす手段が最良だ。
最良の手段を執らないのは愚かだ。
理解できない手段が存在する。
一般的に最良の手段は、理解が可能とは限らない。
それどころか、理解できないことの方が多い。
理解可能な手段は一般的に良い手段ではない
それどころか、求める結果によっては存在しない可能性がある
理解できない手段を理解することはできる。
しかし、それは理解可能な手段からの導出によってのみ実現できる。
故に、理解可能な手段を執るより遅い=無意味だ。
私は理解が目的であるため、最良でない手段=理解できる手段を執る
故に私は愚かだ。
愚かでないようにすると、私は目的を達成できない。
ちっとも面白くない。
普通が、社会が求めるのは、結果だ。目的は結果だ。
世界は結果を求めて動いている。
だから、世界は楽しくない。
◇ ◇ ◇ ◇
当然だけれど。
あることが普通にできてしまう人は、それが普通にできない人に対してやり方を(上手に)説明することができない。
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判らないということは、イメージが無いということだ。
対応する文章がそのひとの文法に存在しないともいうことができる。
共通してあるべき観念が欠落しているともいえる。
『イメージが無い』と聞くと、ではそのイメージだけを伝えればよいと思うかもしれないが、それは間違いだ。なぜなら、そのイメージを理解するためのイメージが無いかもしれないからだ。
イメージと言ったが、絵である必要は無い。喩えはイメージだし、文章もイメージだ。
相手と話が通じないのは、相手がこちらの文章が判らないということだ。
こちらの言っていることの意味が解らないのは何故なのか。
共通の認識が無いからと言い換えることができるだろうが、共通の認識とはなんだろうか。
共通の認識が無いということは、共通の経験が無いことと完全に同値ではない。
完全に共通の経験をしていた場合は共通の認識を持つと思われるし、そのような意味では同値であるが、ここでの『経験』とは『あるキーとなるイベント』という意味で用いる。後に示される結論を言い換えると、『判っている人の考えるキーとなるイベント』の総数は『判っていない人が必要とするキーとなるイベント』の総数よりも大幅に少ないということになる。
共通認識と聞くと、共通の仮定であることのように思える。ここでの仮定は、『AはBだ』というレベルでの仮定である。
全ての『~は~だ』の形の仮定を共有しても、共通の認識は行われない。なぜなら、思考方法が共有されていないからだ。
仮定をすべて共有してもANDやORの定義が異なれば導出される結果は異なる。
大したことを言っているわけでは無い。同じ経験をしていても、考え方が違えば意見は合わないと言っているだけだ。しかし、考え方が違うと本当にどうしようもないのか?
少なくとも、同じ経験をして、同じ意見をえられないならば、説明はできない。
同じ意見が得られるまで、基本的なところまで立ち戻って、経験を再帰的に共有しなければならない。
あることが普通にできる人には、あることができなかった経験が足りない。結局、やり方の説明は、できないを見つけてできるに変換することだ。
大したことは言っていない。スタートラインが自分より後ろの人に説明するためには、そのひとが自分と同じスタートラインに立ってからでないと説明できないというだけだ。
できない人は経験が足りていない。そして、できない人に説明できるのは、そのひとが今経っているラインよりも後ろからスタートした人だけだ。最初からできる人はできない経験が足りていないから説明できない。人より少ないキーイベントでクリアできたのだから、教えられるキーイベントが少ない。
だから、最初からできる人は全然できない人にうまく説明することができない。
塾講師時代の自分をぶん殴りたい。
十分な説明なんて存在しないのだ。十分にうまい説明なんて存在しないのだ。絶対に、それが理解できない人は存在するのだ。だから、私は常に説明を考え続けるべきだったのだ。或る説明を思いついても、すぐに更に詳しい説明を考え続けるべきなのだ。
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◇ ◇ ◇ ◇
人と何が異なるかしか語らないと評される。しばしば嘲りの意味で。
彼らが指摘するように、それがカッコイイと思っているからでは、決してない。
思っていないのに何故そのような言動を取るか。
端的に言うと、思考方法の問題なのだ。
普通、何かを語るときには、何が良いかを語る(ことになっている)。
そのためには何が良いかを判っている必要がある。
何が良いかとは(自身の観測に対して良いということ、なので)つまり何が好きか、と言い換えることができる。
つまり、普通、何かについて語るときは、その『何か』が好きである、という前提が存在する。
好きだ、ということはそれが『好き』に属する要素を持っているということだ。
だから、『何かが好きである』ことを語ることは、何かが持っている属性を挙げて、それが好きだというということだ。
つまり、『Aが好き』とは、Bという好きな属性があって、『AはBである』と言う、ということだ。
だから、何かを語るということは、『AはBである』という文法になるのだ。
何かを語る=>何かが好きだと語る=>『AはBである』という文法で喋る
なのだ。
だから、自身を説明するとき、普通は『AはBである』という文法で喋るのだ。その文法でないといけないのだ。
私は私が好きではない。
だから、私は否定形で自己を説明することになる。
そこに意図があって態々否定形で話しているわけでは無いのだけれど。
■■■
私の基本思考は『Aは少なくともBではない』だ。
語る、という行為を行おうというときに一番自然な方法は『思考を文章化する』ことだろう。
だから、私が自然に何かを語ろうとするときは『何でないか』を語ることになる。
これは前述の
何かを語るということはそれの何が良いかを語る
の規則から外れる。
故に、私の話を聞いている側は違和感を(もっというとイラつき、つまらなさ)を覚えるだろう。だって、会話の(つまり、口語の、言い換えるなら日本語の)規則に従っていない入力をされるのだから。
■■■
前述のとおり、あることが最初からわかっている人にはわからないという人が何故わからないのかが判らない。
今回のことにこれを適用すると、最初から『何が良いかを語る』ことができる人(語る=良いことを語る=肯定系の文法で語ることが最初から普通である、最初からできる人)は否定形で喋るということが判らない。肯定系で喋れないということが判らない。
肯定系で喋らないのではないのだ。肯定系で喋れないのだ。
そして、肯定系で最初から喋れる人のアドバイスは前述のとおり無意味である、不十分である、ナンセンスである。
目標(=肯定できるようになればいい)が判ったところで意味は無い。肯定系の人間の意見は参考にならない。彼らには出来ない経験が不足している。自身で解決するしかない。
意見を聞くことができるとしたら年上だろう。少なくとも同年代や後輩ではない。
原因が分かったところで意味は無い。何が原因で否定形になったのかが分かったところで意味は無い。同じ経験を持っている人は居ない。似た経験を持った人が居たとしても本当にごく少数だ。
時代で環境は変化する。似た経験を持つのは同年代以外在り得ない。同年代に解決者が居ることはありえない。解決には時間を要する。同年代の存在が解決できた原因が私よりも深いことはありえない。解決には時間を要するのだから、同じ経験を解決できたものは年長者であるはずだ。これらは矛盾する。結果、自身で解決するほかは無い。
■■■
私は私が好きではない。恐らく、これが否定形の思考の原因の一つだ。
私は私が劣っていると認識している。
私は私を肯定してはならないと断定している。
これらが恐らく根本的な原因だ。他の思考や嗜好の祖語もこれに一端を発しているはずだ。
これらの断定は思考そのものを規定している。だから、仮令他者と同じ経験を持ったとしても、これらが改善しない限りは同じ結果を得ることはできない。
若しくは、私は私が好きでないと思わなくてはいけないと断定しているのかもしれない。
どれにせよ、解決のためには原因の特定が必要だ。
もしも原因が無いなら、私は一生改善が不可能ということになる。
■■■
少なくとも、私が結果を楽しめないのは、私が私を好きでないからだ。
私は私以外が好きだ。
理解できないモノを観察するのは、見るだけは、楽しい。その中に私と同じ要素が見いだせないからだ。
そう、理解できないモノを見るのは楽しい。自身にできないことは楽しい。自身と関係ない遠くにあるモノを見るのは楽しい。なぜそうなるのか判らないものは楽しい。
楽しいものは興味深い。もっと知りたい。理解したい。
理解したい。しかし、私が求めているものは、理解できないことなのだ。理解する瞬間までは楽しい。理解しようとしている間は楽しい。理解した後に残ったモノは最悪だ。
理解することは自身の言葉に翻訳することだ。
自身とは思考だ。思考とは言葉だ。だから、自身の言葉に翻訳されたものは自身だ。翻訳された結果は、つまり嫌いなものだ。
キライな物、つまり否定形で表されるものだ。良いモノとは違うものだ、良いモノとの違いによって表現されるものだ。
私の思考は私自身だ。私の思考から導かれる結果は全てキライなものだ。否定形だ。
故に、私の思考の結果は、私にとって嫌いな結果にしかならない。
つまり、考えても、ロクなことにならない。
全ての考えは、ロクでもない結果に収束する。
だから、世界は判るとつまらない。判った世界はつまらない。判った世界は嫌いなものだ。なぜなら、私の思考の結果だからだ。
しかし、残るものはある。『理解した瞬間の記憶』だ。
私にとって楽しいのは、理解しようとしている間と、思考を述べている間に想起されている、その思考を理解しようとしていた時の、理解した瞬間の、その記憶だ。
だから、私にとって楽しいことは判らないこと……判らない概念を聞いていること、つまり聞くことで引き起こされる、小さな理解の連続の時間。そして、何かを語ることでその理解の記憶が引き起こされている時間なのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
■■■
以下の文章はこの段落以前の数段落を書くよりも前に書かれた。
相互理解が得られるということは、判るということは、究極的には、思考をそのまま転写した文章を読んで、理解できるということだ。思考の飛躍すら、言葉の冗長すら、そのまま含まれている文章を理解することだ。
判りやすい1つの文章では、理解のできる形の1つの文章では、それは決して伝わることが無い。
必要なのは、思考そのままの原文と、それの膨大な翻訳資料だ。
私は、理解がしたい。
以前今回以外にも別のどこかで、私は話すことと聞くことが、つまり語ることと語られることが好きだ、と言った。それはつまり、上記のこと、理解ということでもある。
そう、私が求めているのは冗長で飛躍的な思考の原文と、それを翻訳するための質問(対話)なのだ。
大抵の人はその冗長さを面白いと感じないだろう。つまらないと感じるだろう。
私からすれば、『何故だ、こんなに面白いのに』という思いだ(普通の人が、勝つことを、結果を、目的を面白いと思うように)。
思考の原文の共有は面白い。それは究極の理解だからだ。
原文の翻訳のための対話は面白い。それは小さな理解の連続だからだ。
一つの単語の、文章の、思考の翻訳は、それぞれ全て理解である。なぜなら、翻訳とは概念の写像だからだ。
翻訳でなく、説明も同じように面白い。何故なら説明もまた理解であるからだ。
説明は低位の概念の組み合わせで高位の概念を導き出すことだ。それは前述の通りに理解に他ならない。
そして、説明はそれだけではない。
説明するためには、低位の概念についての共通認識が必要だ。低位の概念の共通認識を得る、ということはやはり思考の翻訳に他ならない。
そうゆう意味では説明という概念は翻訳を内包する。
説明の目的はある(高次の)概念について共通認識を得ることだ。
説明には二つのパターンがある。
一つは、説明者のほうが多くを知っている場合だ。
このとき、説明者はまず必要な低位の概念を説明し、次に高位の概念を導出する。
もう一つは、実は双方ともに(結果的に)同じ概念を持っていた場合だ。
この時に行われる作業は翻訳、つまり同位の概念間の写像の形成である。そして、同位の概念間の写像ができるということは、同じ意味で言葉を使うということに他ならない。
要は『それならそうと言え』というやつだ。(この発言はナンセンスである。なぜなら、自身と他者では頭の中で使っている単語の定義が(辞書が、文法が)異なり、その違いを認識するためには対話をするほかないからである。)
つまり、理解とは説明である。説明は同次元の写像と下位からの合成で行われ、同次元の写像とは翻訳である。
■■■
『何が言いたい?』という疑問文を使うときは気を付けるべきだ。
この疑問文は要約、もしくは単語の翻訳を求める言葉である。
要約を聞くと、判った気がしてしまう。しかしそれは理解ではない。
要約を、単語の翻訳を受けた上で、もう一度原文を確認し、それがそのまま受け入れられてこそ、理解が完了するのだ。
要約が判った時点では、決して理解ではない。
そうだ、私は細かいことを気にしすぎているだけなのだ。本来、要約が判った時点で甘んじるべきなのだ。○○○(ふさわしい単語が思いつかない。意味、論理に近い意味の単語。)が伝わる時点で甘んじるべきなのだ。しかし、要約が伝わっても、○○○は共有されるが、意図は決して共有されないのだ。理解は、○○○と意図の融合した思考というものの理解は、決して要約では完成しないのだ。
要約はだめなのだ。しかし、言い換えは許される。
言い換えは単射だ、つまり翻訳だ(単射でない言い換えは言い換えではない)。要約は単射ではない。
説明とは(説明から翻訳を除いたものとは)、単射の先がないモノを補うことだ。
要約は単射ではない。若しくは正確ではない単射だ。
自分と相手で基底が同じだとは限らない。
翻訳は基底の取り換えだ。
説明から翻訳を除いたものは基底の追加だ。
いや、翻訳にはもう一つ側面がある。それは離散値の隙間を埋めることだ。
基底の数が同じだったとして、(行列の階数が同じだったとして、)全ての空間が密に貼られているとは限らない。AとBがあったとして、A且つBという概念を相手が持っているとは限らない。
これが、言葉の難しいことだ。
単語は基底だ。
文章は空間だ。
しかし、翻訳では必ずしも単語と単語、文章と文章を対応付けるわけではない。
単語が文章に写像されることがある。逆も然りだ。
そして要約とは、文章に写像しなければならないときに、一部を近い(同じではない)単語に写像することだ。当然情報は欠落する。だから要約で理解は完成しないのだ。
前述のとおり、言い換えは許される。そして、言い換えによって、文章が単語に写像されることはありえる。しかし、これは要約ではないことに気を付けないければならない。
言い換えは文章を短くすることがあるが、長くすることだってある。
言い換えは理解や翻訳や説明とほぼ同義だ。
思考をすっきりさせることは、つまり自身から自身への翻訳だ。
散文的な思考は、重複する要素を纏めるなどして再翻訳が可能だ。
これは自身の思考を自身の言葉と文章で言い換えをしたものだ。
『何が言いたい?』
この言葉を使うときに求めるのは、要約ではなく言い換えでなければならない。
つまり、相手の、相手自身の言葉への単射でなければならない。相手の言葉を自身の言葉へ写像することを求めてはならない。
必要なのは、先ず原文があり、原文が相手の言葉で相手の言葉に言い換えられ、言い換えの翻訳を行い、そして原文の翻訳を行うことなのだ。
要約は要約に過ぎない。少なくとも、感情が付随しない。
思考とは論理だけではない。伝えたいことは論理だけではない。
言い換えすら『冷静』のフィルタを通る。だから、やはり原文を理解することこそが思考の理解だ。
感情を伝える技術は存在する。しかしそれは正確性が省かれる。そんなものは思考ではありえない。感情のみの共有を私は求めない。なぜなら、感情を表す言葉が、感情によって引き起こされる文章が、全く別の物なのだから。感情が判っても、決して相手の思考は判らない。
だから、何度も言うように、理解とは、思考の伝達とは、思考の原文を受容することでしか達成されない。そして、そのための手段は翻訳や説明なのである。
■■■
我儘を言っているのである。
しかし、要約のみの理解は浅いのだ。
その浅いモノを求められるのが、求めるのが、嫌なのだ、楽しさの欠片もないのだ。
要約はもちろん必要だとも。しかし十分には程遠い。
要約は理解のための段階でしか、手段でしかない。それは理解ではない。
■■■
要約の中に理解の一部が含まれることは在り得る。
それは、複数の文章を複数の単語に圧縮的に写像した後、単語同士を繋ぐ瞬間だ。離散値と離散値を繋ぐと言うこと、つまり翻訳だ。
■■■
そう、この文章では、複数の定義が明らかに混在している。例えば圧縮のみを指す要約と一般的意味を指す要約が入り混じっている
しかし、これらを正確に表現するためには一対一対応する別の言葉を用意しなければならない。(例えば、圧縮のみの要約は『☆』と表記する、等。)
一本道の文章の限界がこれだ。一本道で正確に表現しようとしたら、使用する全ての単語を一意的に表さなければならない。さらに自身の単語をすべて相手の単語に言い換えなければならない。故に、理解するには一対一で対面しなければならない。自身と相手と第三者の単語は全て異なるのだから。
文章にする前に相手の単語をすべて理解するのは不可能だ。故に原文を示し、対話によって翻訳を行うのが最も効率的で実用的である。
思考は散文だ。散文であるから、単語の定義が散る度に変化する。だから、そもそも一本道に言い換えることは不可能なのだ。一本道にするためには、必ず要約が入るか、冒頭で単語の定義を一意に定めるほかは無いのだ。
■■■
この文章は原文に非常に近い。しかし原文ではない。
色分けして表示できれば良いのだが、この文章でも原文以外に、翻訳と言い換えと、そして要約が付加されてしまっている。分離できるはずなのだが。
■■■
◇ ◇ ◇ ◇
「長い。」
や、そんなこと言われても。
「せめて、推敲や要約をしなさいよ。」
や、要旨は要約をしないってことなんだけど。
「だとしても、読めなきゃ意味がないじゃない。長いだけでも読みたくないのに、散発的で一貫性のない未推敲の文章だなんて、絶対読まないわ。」
やー、人間、半日で1万字オーバー書けるもんなんだねー。
「物を書く以上は、最低限読める文章を書けと、意味の通る文章を書けといっているのよ。」
忘れたくなかったんだよ、あと、言ってるように原文は必要だと私は思うんだ。
多分論旨別に分けてそのうちちゃんと会話形式で書く、と思う。
「『そのうち』……ねぇ。」
うん。そのうち。まとまった言い換えが見つかったら。
「最近思うのだけれど、会話形式って意見の主張には適さないわよね。止めたら?」
それはもう、うちと話すのはいやっていうことなのかい……?
「目的に合致した手段を使えと言っているのよ。今回だって、一人称だったじゃない。」
えー。ブログで一人称自分語りとかさー、痛々しいにもほどがあるじゃんー。
「(二人称会話形式のほうがよっぽど痛々しいと思うけれど。つーか判っててやるってどうなのよ。それって判ってないっていうんじゃないかしら。)」
まぁ、適さないってのはそーだね。なんかうまい手段ないかな。
◇ ◇ ◇ ◇
「ところで、キャラが崩壊していないかしら。これって、先日私が言った内容とわりと一緒よね。本来私のターンなんじゃないかしら。」
あー、うん、そんな気もしたんだけど、設定的には私っぽかったから
「設定って……。」
なんていうかねー、悠は感情的なことで悩まないんだよ。否定はするけど、基本思想はネガティブじゃないんだ。
「そういえば、アナタって自称ネガティブハイテンションとか言っていたかしら?」
やめて、黒歴史を引っ張り出さんといて。
大丈夫だよ、設定上キミと私は基本思考やらはあんまり変わってない設定だから、同じようなことを喋っても。
『最近同じことしか言ってないな。ついにボケたか。』
[0回]
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