◇ ◇ ◇ ◇
日記なんだから私が喋りたいことを喋りたいように言ってるんだよ。いいじゃないか。漸く自身にあった積年の燻りが、言葉になったんだから、喋ったって。
「ええ、確かにどうでもいいわよ。誰も聞いていないことを虚空に向かって嬉々としてしゃべっているのは滑稽だというだけの話なのだから。」
つまり私は道化ってことかい?いやだな、そんなに褒められると照れちゃうよ。
「道化と言ったつもりも、ましてや褒めたつもりもないけれど……アナタがそれでいいならいいわよ。(道化ねぇ……。周りのためにお道化ているのなら微笑ましいけれど、ただの滑稽なだけの道化は哀れだわ。)」
話を戻すと。私(達)って返答がまどろっこしいじゃないですか。
「そうかしら。」
そうだよ、っていうかその返答も含めてまどろっこしいんだけど。私達は基本的に、選択式の質問をされたら長ったらしい文章で答えてるんだよ。しかも、最終的にどれかの選択肢に集約される文章を答えるんだ。
「どうせどれかなのだから、最初っからそれを答えればいいのに。非常に無駄で面倒くさい人間ね。喋ってると疲れると思うわ。」
念のため繰り返すと、キミもそのての人間なんだからな……!
しかしだ、私が主張したいのは、一見無駄に長ったらしい返答は、別に無駄でもなんでもない(無駄だと言い切ることはできない)ということなんだよ。
「そりゃ、どんな冗長性でもあればなにかには使えるでしょう。ペットボトルのキャップを集めてキャップ代よりも高い郵送費を払えば募金ができる程度には。」
もーちょっとさ、斜に構えてない、いい喩はなかったの……。
「確かにいい喩ではなかったわね。そもそも単体で役割をもっていないモノの冗長性の喩のはずだったのだから、ペットボトルの蓋は該当しないわ。A●BのCDだってフリスビーとして使える、でどうかしら。」
だから喩えるならもっと普通のもので喩えてよ。っていうかキミの喩についてが議題じゃないんだよ。
そして私がさっき言ったのはキミが喩えたような冗長一般の話じゃないんだ。自身の性質について選択式の返答を迫られたとき、冗長性は寧ろ必然的だっていいたいんだ。
「(そりゃ、自身の冗長性を指摘されたら、誰だってその必然性を主張したくなるわよねぇ。)選択式で質問されたら選択肢で返すことこそが必然じゃないかしら。」
前後の文脈にもよるけれど(テンプレ回答を明らかに相手が期待しているときとか)、性質について述べる分には(どこ行くか選べ、みたいな動作などについての限られた選択肢を問われているのでなければ)そうとは言えないね。だって、性質は有限じゃないどころか一次元でも可算でもないんだから。
あぁ、念のために言っておくと、こっからの話は、会話を行うときに、互いの見識が深まるのは良いことだという前提に立って話すから、そのつもりで。
「(見識……知識とか視野とかそういう意味で使ってるのかしら。会話ってそもそもそんな難しいものでなくて、何気なく自分の知っている範囲での回答を期待するものだと思うけれど。だからこその選択式な質問なのではないかしら。)有限とか非可算とかイキナリ飛躍した言葉を使わないで、ちゃんと説明してくれる?」
ん、気を付ける。えーっと、
◇性質を答えるのは難しい
■多元性の問題:リンゴの性質は丸か赤か?
丸くて赤い。しいて言うなら青リンゴもあるから丸の方が本質といえるのか?
そもそも丸も赤も本質か?
リンゴの性質を答えるならば、更にその構成要素や他の観点を加えるのは必須ではないか。
このように、そもそも別次元を混在させ、なおかつ選択肢の数が制限されている場合、意味のある回答を返すのが難しい。
この例では別次元の問題であることが明らかだが、選択肢が短めの文章だったりすると、別次元であることが判りづらくなる。(更には選択肢同士に包含関係や交差点があったりすると判別が難しくなる)
故に、性質を質問している時点で、選択肢の設定には細心の注意を払わなければいけないし、常に選択肢外の答えが返ってくる可能性を秘めている
■近似の問題:これは赤色か青色か――同質(一次元上)で被ってない(離散的)選択肢ならば問題ないか?
それがアナタには赤紫色に見えたとして、赤と答えてよいものか。赤か青の二元論で問われたら、赤紫はその間を結ぶ直線状にあり、間違いなく赤の側に属するのだが。
そのまま『赤紫だ』と答えればよいと思うかもしれない。しかし、赤紫よりも赤に近い色にみえたとしたら、そのまま『赤紫より赤に近い色』と答えるのか?それとも『紅色』とでも答えようか(相手が紅色を知らなかったら結局詳しく説明するのか。)?どのみち、要すれば『赤』であることは間違いないのだ。
また、多次元の問題と重なるが、『暗い赤』を『赤』と答えてしまってよいか?明度の情報を付加して伝えるべきではないのか?
■認識行為としての返答:私は何かに成れるのか
質問の対象が客観的な物であれば、近似の問題は『相手の』価値観・視野を把握することで、ある程度適切な範囲の返答を返すことが可能だ。(相手の望む・相手に有用な精度での返答を模索する問題となる。)
しかし、質問の対象が自己の性質となった場合、それは別の問題を生む。自己認識の問題だ。
この問題には2つの質問が含まれている。つまり
◇私は自身の性質を把握しているのか?
◇私は私の性質をその選択肢で近似することを許容できるのか?
である。
前者について、把握しているかとはつまり文章で表現可能かということだが、(まだ)表現不可能であるということの判定は、単純に、今自身が持っている(未だ持っていない)自身の性質を説明する文章に、納得がいっているかで行われる。さらに単純化して言うなら、提示された選択肢内に『自身にとって』『ぴったりと』納得のいくものがあるかということである。
これができていないとき、返答は『××でない、○○に近いが異なる』というものにならざるを得ない。これに対して、「いや、少なくとも○○に近いのだから、赤紫を赤と答えるように、○○と答えればいいのではないか」という意見は当然湧くところだろう。しかし、自己認識における近似と客観の近似は、根本的に異なるのである。
それが後者の質問で示される問題点だ。
自己というものが他者との関わり――主だって会話によって――作られること、そして思考が言語(文章)によって形作られている以上、他者に自己を規定する文章を発するということは(自己を近似する単語を発してしまうということは)それ自体が自己を規定・更新しかねない行為となる。
故に、許容できない自己規定の言葉を発することを、自我は許さない(発した自己規定はその会話自体が他者との関わりである以上、主体形成の法則に則って強制的に自己を変容せしめようとする。この行為は自我にとって望まざる変容を強制する悪しきものに他ならない)。逆に言うと、自己規定の近似の許可を行うのは常に『相手の価値観』ではなく『自我自身』なのである。なお、この許可は『近似の差異は自我にとって些末である』場合か『些末でなく、変容が発生するが、自我にとって有用な変容である』時に行われるだろう。
更に述べると、この許可――肯定的発言――ができるのは自身の性質を(文章という形で)把握していてこそである。その把握ができておらず、尚且つ自身を選択肢に対して押し込めることが不可能である場合、そこには否定形の『××でない』しか残らない。
……というわけなんだけど。
「長い。読む気失せる。それはまぁいつも通りだけど、更には面倒くさがったわね。」
な、何がですか?
「会話に起こすのを、よ。そんな堅苦しい書き方をするなら、最初からそういう風に書けばいいじゃない。会話文で日記を始めたのだから、一貫性くらい保ちなさいよ。」
だってこれ、会話に直すと3倍以上になるよ。しかも会話にしたからって分かり易くなるわけじゃないし。
「(だったら最初から会話で書くなって言っているのだけれど。)」
ともかく、まともに返答しようと思ったらさ、文章の返答に成らざるを得ないし、しかも幾らでも長くなりうるってことなんだよ。
「そこを如何に短くするか、っていうか、それでも相手の意図を最大限に汲んで選択肢内から選んで答えるのが『会話をする』ってことなんじゃないかしら。」
[1回]
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