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「携帯電子メモ帳だなんて、またそんなものに無駄金を使って……!」
存外に便利よ?これ。手軽に書けるから。
「手軽に黒歴史量産してどうすんのよ。」
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2012/06/13 08:44
行き成りですが、私は今愛の心にあふれています、人生すべてが楽しく見え、様々なものに愛おしさを感じています。そして抽象的な思考が矢継ぎ早に溢れだしてきます。
・・・・・・つまり、躁状態ということです。
あるいは睡眠不足から引き起こされる軽いハイテンションかもしれませんが、まぁ、大した差ではありません。少なくとも観念が奔逸していて軽い全能感を覚えている状態なのは間違いありません。私こと紬を自己として規定する鍵の一つは躁状態であることなのですから、私が私である以上、今は躁状態であるのです。。
あえて、躁状態であるだけで、所謂躁病ではないという根拠を提示してみるならば、社会的生活に影響を与えないことと、後になって今の状態を思い返しても特に恥ずかしい気持ちに、後悔する気持ちにならないことが挙げられるでしょうか。
躁鬱は精神病ですが、確か社会生活に影響が無いものは精神病に当たらないはずですので、躁気味だとしても躁では無いのでしょう。また、躁鬱の人は素面(?)に戻ったときに躁状態だったときの言動、思考を非常に否定的に感じるものだそうですが、私は特にそのようなことは(少なくとも、頻繁には)ありません。
尤も、後者(後で恥ずかしくならないこと)に関しては、前述のとおりに『躁である』という性質が私こと紬のみに割り当てられていることに、つまり『紬が勝手に言ったこと』であるという認識に起因しているかもしれませんが・・・・・・。
まぁ、何が言いたいかと言いますと。そろそろ出かけなくてはいけないのに、ゲームのインストールを始めてしまい、私は少々困っているのでした。(そう、このような説明と結論の大幅な飛躍が、観念奔逸であるという根拠です。仮定に対して結論があまりにも遠くにあり過ぎることが、思考の文章化をいつも妨げるのです。)
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2012/06/13 18:41
ちくしょう、チクショウ、ちくしょう、ちくしょう。
気づかない方がいいことがあります、考えない方がいいことがあります。いや、考えた方がいいことなんて存在しません。(考えるべきことを考えたって、私の精神にとっての救いは齎されず、絶望的な現実を浮き彫りにするだけなのです。)
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(先に、客観的な状態を表しておくことにします。この文章が書かれた意図は、客観的に考えて、
『イラコンでボコボコになったことによるストレス(自身が未熟であることの再確認と、自身に向上心が無いことの再確認)を解消する方法として、自身に対する責任転嫁を行っている』
という、そうゆうことなのです。自身、正確には自身の構成要素のことであり、
『何か悪いところがあるから巧く行かないのだ、その悪いところが悪いのであり、私の人格そのものは悪くない』
という責任転嫁なのです。しかしながら、自身の構成要素に対する責任転嫁は結局は自身の人格への糾弾で、ストレスを解消するつもりが、更なる(最早それ以上責任転嫁不可能な)ストレスの加算になるのです。勝手に落ち込んで、さらに勝手に絶望しているだけなのです。なんて馬鹿馬鹿しいのでしょう。更に落ち込むのが判っているなら、そんなことせずに、可能な手段によって未熟な技術をちゃんと習熟すればいいだけの話ですのに。)
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自己を改善するために、考えて考えて、熟考の末にたどり着いた原因なんて、ろくなものでないに決まっています。全ての思考の結論は、ロクでもないことに収まります。
だって、熟考しなきゃ気づかないことっていうのは、根本的なことなのですから。行動や思考の根元を成すものなのですから。
そんなところが間違っていることに気づいたとして、一体どのようにして直せばいいのでしょう。直し方が判ったところで、いつになったら治るのでしょう。直すのに20年間掛かるとしたら、直すことに意義はあるのでしょうか。
根本的なこと。喩えるならば、いや喩でなく実際に、例えば、私はほんの半年前まで正しい立ち方を、歩き方を知らなかったのです。ほんの数ヶ月前まで、会話とはどのようなものか知りませんでした。先日まで、学ぶとはどういうことか判っていませんでした。
知らなかったとゆうことは、今は知っているとゆうことです。知ったからには解決法を考えることくらい、解答の判っている数式を証明するくらいには簡単です。
つまり今の私には、とっくに解決法は判っていて、更には解決するまでに必要となる膨大な『時間と努力<コスト>』が解っていて、そして解決後にはどこまでもつまらない世界が広がっているのだとゆうことも分かっているのです。
私は、理解してしまった以上は、実行します。これは主義です。逆に言うと、実行の理由は主義以外に無く、つまり意義を感じてはいないのです。
『そちらのほうが正しい』、ただそれだけの理由で直すのです。『正しい』『精度が高い』『最終的に効率が良い』。理由は、利点はただそれだけです。『特に不自由していないし、今後もしない』『今の方法は楽しい』『直された後の方法は楽しくない』ことが明らかなのに、直さねばならないのです。
無地な世界を私が嘆いていることに、なんら不自然はないはずです。(正しいかどうかと自然かどうかは、また別の話でしょう。)
正しくないことは判っています。しかし、誰も(極端には、個性という言葉で埋もれてしまう程度にしか、)困ってはいないはずなのです。
先ほども述べましたが、私が実行をするのは、私や私以外の都合ではなく、それが効率的だからとゆうことそのものでもなく、只々それが正しいから、それのみです。そう、不都合があるからではないのです。言い換えると、私は『常に成長しなければならない』という観念に取り憑かれています。
観念とゆう言葉を使いました。これが私の一貫性であり、主体であり、人格であり、そして『根本的な誤り』なのです。
私の思考は観念的です。常に観念奔逸で思考が行われます。逆に言うと、観念的な思考を行っているとき、私は私であることを認識します。私の人格は、観念奔逸であることを基盤としています。
(08:44時点と大きく言動が変わっていたとしても、それは今の私が抑鬱状態であるという事実を、私が双極的であるという事実を説明するものでは決して無く、寧ろ躁状態に見えるものは躁ではないということを示します。繰り返しますが、私は常に、気分が高揚していようが消沈していようが常に観念的なのです。)
その観念的思考を、私の人格の基盤を、私は捨て去らなければならないのです。それが今回行き着いた結論なのです。
観念的思考は観念を、自身の持つイメージを繋ぎ合わせる思考方法です。詳細な具体を離散的な観念として見做し、観念と観念を繋げることで、詳細な具体の繋がりを解明しなくとも結論を、思考を、次のナニカを得る方法です。物事をイミというレイヤーに翻訳して、それの繋がりによって理解する思考方法です。そのため、物事そのものを見ることはできませんし、観念への翻訳と観念からの再翻訳無しには思考が成り立ちません。これが、私の誤りの根元なのです。
観念的な思考は速いように見えて、最終的には遅いのです。何故なら観念的な思考の出力は誤りが大きく、正しく再翻訳を行うには演繹的に論理的思考を行うよりも、結果的には時間がかかってしまうのです。この再翻訳の手間は、具体と自身の持つ観念との間に差があればあるほど大きくなります。
(今私が言ったことは、、ただ単に、『自己流の癖がついてしまっているから物事を習得するのに手間がかかる』というだけの意味なのだと思います。)
私が論理的な説明を行うことができているとき、それは論理的な思考を行っているのではなく、観念的な思考の結果を論理に翻訳しているにすぎません。
ともかく、私は自身が今まで誤った学び方を、つまり、観念的な思考方法を執っていたことに気づきました。
そして、正しい(一般的な、正確な、行うべき)思考方法とは、論理的な、演繹的な、飛躍のない、翻訳を必要としないものであることも理解しました。
私はこれを習得しなければなりません。習得できるとしたら、(今まで使っていなかったのですから)10年以上はかかるでしょう。そして、歩き方を説明できる人は多くないように、私はこれを自身のみの力で習得せねばならないでしょう。
しかし、私は、習得後の思考は、ちっとも楽しくないであろうことが予見できてしまっているのです。だって、今の私が平常時から常に使っている『観念的な』思考というのは、詰まる所よっぱらいの、躁状態の思考なのですから。思考方法そのものが楽しいのです。逆に、正しい思考は、確実に、楽しくないのです。何度も言いますが、そんなものを長い時間をかけて習得しなきゃいけないのです。
なぜなら、普通はそうだからです。普通は論理的思考なのです、演繹的思考なのです、正しい結果が出ることが重要な方針なのです。私の苦しみは、甘えでしかないのです。
しかし、この嘆きは他力なのです。(正確には、他力であると直感しています。)つまり弱者の理論です。弱者の理論である以上、正確に理解ができるのは矯正した者だけでしょう。そんな人は居るのでしょうか。見識が狭いことは重々承知していますが、歩き方を知らなかった人は居るのでしょうか。
そうです、弱者の理論です。結論の出ている理論です。手段は幾許かが示されている理論です。強者は結論を最初から手にしているか、幾許かの手段が自身に適合していた存在です。
だからこそ、私は、改善しなくてはいけないのです。それも、できる限り、強者が判っていないことを判っているかの如く主張する前に。(尤も、速度で彼らを抜くなんて、そもそも不可能ですけれどね。)
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観念的、それは私の根本的な間違いをある角度で見た射影であって、別の角度から表現すると、因果関係という言葉に相当します。
因果関係。あることが起きれば、対応した結果が常に生じてある出来事には、何かしらの原因があって、その交錯の出所は置いておくとしても、ある観点から因果関係を説明することが可能とするのは、そこまで誤った考えではないでしょう。しかし、私にとってすべての因果は私に集まっていました。
ここに石があることは他でもない私にとって意味がある。この煉瓦に空いた穴は、私に世界の意味を伝えようとしている。100エーカーの森の熊に会う前から、私はそのような、全ての事象にはイミが用意されているという妄執に囚われていました。
(予め答えがあることを仮定し、かつ観念的に思考することは、大意を早く掴むという点に於いては役にたつが、詳細なことを考えるのには適しません。)
私の思考は常に、解答が用意されていることを仮定します。正確には、私が解答を持っていることを仮定します。
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()の文章を何度か書きました。
この、この()こそが悠の正体なのです。一本の線にならない思考を便宜上他者としているだけなのです。しかし、()は私なのでしょうか。
いえ、本来はどちらかに決めなければならないのです。
正確には、主体が、主義が定まってさえいれば、どちらかに自動的に定まるものなのです。
しかし、私には(未だ)主体が、主義が定まっていません。正確には、主義を定めないことが主義なのです。
(主義を定めないと言っても、それは本来『全ての主義を一様に扱う』ことにはなりません。なんらかの重み付けがあるはずです。適応的に変化するはずで、多重にはならないはずです。しかし、私にはその重み付けができません、認められません。適応的に定めた後ですら、一意に定められないという観念があるのです。だから、今の私にできることは、全てを曖昧に、全てを一様に認めることだけなのです。)
正しく考えようとすると、考えが定まらないのです。だから、常に、何かを考えようとすると、私の逆が()で頭の中に併記されるのです。
そして、()が主体として行動するのです。でも、()は私が考えているから私の考えで、その考え自体は破たんしていないのです。しかし、私は()でも私だと認識しています。だから、()の行動をとっていても、私は私でしかありえません。
話が逸れましたが、正しくしようとすると、観念的ではいられず、正解を仮定できず、主体を、自己を規定できないのです。そして、それを実行しなければいけないのです。恐らく、それは普通の人が普通にしていることなのでしょうが、一体何が楽しいのでしょうか。いや、一般的には思考することは楽しくないのでしょうか。きっとそれを知ることはできないのだと思います。
◇ ◇ ◇ ◇
「日記……?なのかしら?これ。」
「推敲してコレなら酷いわよね。日記だから、何言っているか判らなくても良いってことかしら?唾棄すべき思想だわ。」
「この子の悩みって、考えるだけ無駄なのよね。何すればいいかの答えは既に判ってるんだから……。納得しないと行動できないなんて甘えよ。」
「大体、文章が無駄に格好付けすぎなのよ。紬の一人称の日記っていう設定にしておきながら、無駄に硬い文章と語尾だし、紬のキャラが出ていないわ。どうせ文系授業かなにかの影響を受けて書いたのでしょうね。」
「そして、全体的に文章が翻訳文っぽいのは何故かしら?もしかして、最近ちゃんとした長い会話を行っていないから、素の文法が壊れ始めているのかしらね。」
「っていうか正しいって何よ正しいって。そんなよく判らないものを基準にしたら、ふらつくのは自明じゃない。」
「……まぁ、カッコ書きの補足&ツッコミ文を女性口調にしたら私が言っていることとあまり変わらない気がするのはある程度同意だけれど、私は私でもう少しキャラクター付けがされてるわよ。(後付けかもしれないけど。)」
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